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2017年2月 5日 (日)

那些年,我們一起追的八つ墓村(あの頃、八つ墓村を追いかけた) 2.6 〜 忠臣 金持景藤公 の墓

金持大和守景藤公の墓

 元弘の忠臣 金持大和守景藤公の墓です。
鳥取県日野郡日野町金持 に鎮座まします。

 何の予備知識も無しに参りましたが、このあたりは 後鳥羽上皇後醍醐天皇隠岐島 への流配の道中となったのだそうです・・・が、むぅ、後鳥羽上皇後醍醐天皇 が何をした人かと問われれば私は答える事が出来ません、無念。

金持大和守景藤公の墓


金持大和守景藤公の墓


金持大和守景藤公の墓


金持大和守景藤公の墓


金持大和守景藤公の墓


金持大和守景藤公の墓

 後鳥羽上皇 だったか 後醍醐天皇 だったかが 隠岐島 へと流される道中、奪還を目論む勢力の襲撃も予想されるためにルートは極秘、時にはフェイントをかけるような動きもした由聞き及んでおりますが、あまり正確に憶えてはおりません。
 ここは現在の岡山鳥取県境の 四十曲峠 の鳥取県側のふもとになりますが、以下は石碑にあった文言を引用させていただきます。


“金持大和守景藤公の墓

 景藤公は元弘元年(1332)、足利幕府の倒幕に失敗し隠岐島へ流刑となった後醍醐天皇を、護送途中の四十曲峠まで密かにお迎えし、御心を案じ奉った。翌2年天皇隠岐島を脱出、船上山に身を寄せられるや、金持妙見社の戸張を旗印とし、金持党300余騎を引き連れ馳せ参じ、苦戦中の名和長年公を助け、朝山六郎とともに幕府方佐々木清亨の大軍を殲滅した。

 天皇京都へ遷幸の折には天皇の左に錦の御旗を掲げ従った。天皇の親任 厚く大和守に任ぜられ、名を俊宇と改め軍政にあたり、延元元年足利尊氏天皇に叛くや、金持党を率いて新田義貞、恒良・尊良両親王とともに各地に転戦奮闘 し、北陸金ヶ﨑では天皇を守り籠城するなど、終始天皇に誠を盡(つく)した。

 この塔は、公の家臣が鎧を持ち帰り、当地堂ヶ平ルの丘に埋葬し供養した宝篋印塔である。その後片目の白蛇が公を守るかのようにたむろしていたと伝えられている。

    日野町金持  若林 朗 文責”



 私は神仏を如何に崇め奉り祈ろうとも無功徳無利益である、を信条といたした上で詣らせていただいておるのですが、これは前回お邪魔させていただいた 金持神社(かもちじんじゃ) さまのお導きであったのかもしれませんなぁ。有り難い事です。

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