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2011年3月

2011年3月29日 (火)

あんぐり地獄の釜の蓋まとりっくす

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 震災の3月11日から4日目か5日目のことだったと思います。
自衛隊のヘリコプターによる福島第一原発への放水が始まってすぐのころで、いったいどうなっているのだろうと仕事から帰りテレビをつけると、フジテレビでは「はねるのトびら」なんかやってて、なんだか100円均一の商品を間違わずに選ぶとか、もぅ本当にどうでもいい視聴者をナメきったようなことをやっていて、この国家存亡の危機、自分の命もどうなるかわからない時に脳みそが炉心溶融チャイナシンドロームなのかと脱力しました。

 それでチャンネルを替えて震災や原発関連の特番を観ていたのですがそちらでは学者先生?放射能の専門のヒト?が、「放射能といっても花粉症の人が花粉を防ぐようにマスクをして、家に入る時には上着を払ってビニール袋なんかにいれておけばいいのですよ」などといっていました。
 正直に言うとはじめは「へ〜、そんなもんなんだ」とか思ってしまったのですが、すぐに「んんんんなわけあるかいっ!」と思ってこちらも観るのをやめました。

 そして次の日には民放ではどの局も完全に普段のバラエティやドラマを放送していて、なんだか言葉本来の意味とは違うのですが地獄の釜の蓋が開いているのを、実にどうでもいいものやあるいは好きそうなものや面白げなもの、または虚偽虚飾やらはぐらかしやらありとあらゆるもので覆い隠されてしまったような気がしました。

 なんだか幼稚なたとえしかできないのですが、これは映画のマトリックスでニンゲンが繭みたいになって夢を見せられていて、あれは電気(皮肉ですね)を吸い取られていたのですか?あの場面みたいではないですか。
 そこでこっちの薬を飲めばもう一度甘美な夢の中に戻る、こっちの薬を選べば醜悪な現実の世界に目覚めるのだ、みたいな展開になったと思うのですが、一度気づいてしまったからには後者しか選択肢は無かったわけですね。

 ※地獄の釜の蓋が開く、は本来はお正月とお盆は地獄もお休みになるからみんなお休みにしよう、みたいな意味なのですが、このおどろおどろしインパクトな語感が気に入っております。

2011年3月27日 (日)

ペテン師の屍は、やっぱり狐の革裘(きつねのかわごろも)みたいなんだろうか〜うしろめたさはぐらかし隊

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 こちらの関西地方でも来月より、震災の影響により部品の供給が受けられなくなり、JRが電車の本数を減らさざるを得ないようです。
 やがては真綿で首をしめるように、という表現のようにいろいろなところに障害が出てくるのでしょうが、それとてもやはり被災者の方々のことを思えば春のスカ屁程度のものなのでしょう。
 かえすがえすもいかんともしがたいこの理不尽さ。

 世界中の人が日本に対して送って下さったメッセージや写真、イラストや動画なんかをネットを通じて観ることができますが、時に感涙にむせびつつ も、もしかしたらこの人たちは同じ日本にいながらも、とりあえず現状では以前と同様のヌルい生活をしている人もいることは知らないのではないか、などと後 ろめたさを感じたりもします。

 本当に何をしたらいいのだ?

 ※「ペテン師の屍は、やっぱり狐の革裘(きつねのかわごろも)みたいなんだろうか」
 大槻ケンヂ作詞の筋肉少女帯「ペテン師、新月の夜に死す」にでてくる歌詞。元ネタは中原中也らしいです。

2011年3月26日 (土)

ごめんなさいごめんなさい。

 うちんちらへんの丹波国界隈では今現在の時点では生活上、目に見える形で震災の影響といったものを感じることができません。
食料品も水もトイレットペーパーもガソリンもいつでも並んだりしなくても普通に買うことができます。
節電を心掛けても周波数が違うのであまり意味が無いよと言われたりすることすらあるようなていたらくです。

 なにこのたとえようの無い理不尽さは。丸だしの無力感は。

 本当に申し訳ないのは申し訳ないと思う気持ちがだんだんと日々薄れてきつつあることです。
蛇口を開くだけでお湯が出てくることなんかに感じた申し訳なさや違和感が、日々の暮らしの中でいかんともしがたく薄れてきつつあることに本当にごめんなさい。

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